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業界人のお話


第36回 鈴木 通夫 さん


元矢田陶器(株)

陶磁器デザイナー


――名古屋陶芸研究所で助手をつとめる

 昭和7年(1932)生まれの鈴木通夫さんは、戦後の名古屋陶磁器輸出を支えたデザイナーのひとりです。小さいころから絵を描くことが好きだったことに加えて、自宅近くにノリタケ関係者の知り合いがいて、その方に陶磁器の絵付けの手ほどきをしてもらったのがきっかけで、名古屋の陶磁器絵付けの世界に入りました。また、幼いころから両耳が難聴のため、将来のために、なにか技術を身に着けたいという思いも強くあったそうです。
  名古屋輸出陶磁器協同組合は、戦後の上絵付技術者の不足をカバーするために、愛知県から補助金の交付を受けて絵付工の養成に乗り出し、昭和22年(1947)から東白壁小学校で上絵付補導所を開設しています。鈴木さんは、この上絵付補導所に通って陶磁器絵付けを学びました。まだ、高校生の頃のことです。この時、絵付けを教えていた先生のひとりが猪子育三さんでした。
  鈴木さんは、この上絵付補導所でみっちり陶磁器上絵付けの基礎を学びました。そして、昭和25年(1950)に上絵付補導所が廃止となったため、そのかわりに名古屋輸出陶磁器協同組合は、恒久施設として名古屋陶芸研究所を徳川町に建設。ちょうど高校を卒業した鈴木さんは、この陶芸研究所で猪子先生の助手というかたちで、今度は絵付けを教える立場となりました。
 名古屋陶芸研究所は昭和29年(1954)まで続きますが、その間、鈴木さんに指導された多くの生徒が巣立っていき、当時の名古屋の陶磁器絵付けを支えていたはずです。「陶芸研究所の前身の上絵付補導所で絵付けをみっちり教えてもらったので、陶芸研究所では猪子先生の助手をやるようになりました。生徒は40人くらい。周辺の会社の人たちが見習いでたくさん来ていました。女の子もいましたね」と鈴木さん。


――絵付け指導のためにブラジル・サンパウロへ

 その陶芸研究所は昭和29年(1954)には閉鎖されていますが、おそらく、その後、鈴木さんは猪子先生とともにブラジル・サンパウロ(モンテ・アレグレ陶磁器会社)へと旅立ちます。現地の人たちに陶磁器の絵付けの指導をするとともに、日系人向けの陶磁器製品の生産を担うためです。
  「猪子先生の助手としてブラジルに渡りました。現地の人間に絵付けを教えながら、現地の日本商社へ卸す製品をつくっていた。日系人向けの商品ですね。日本から輸入すると価格が高くなるので、現地で陶磁器の生産を始めたんです。ブラジルには3年間いたんですが、給料は良かった。1ドル360円の時代だから、日本で働くよりもたくさんもらえました」。
  知っての通り、ブラジルは世界最大の日系人居住地です。戦争によって中断していた日本人移民受け入れが再開されたのが昭和28年(1953)。鈴木さんたちがブラジルへ渡ったのは、ちょうど新しい世代の日本人がブラジルへと渡っていったときと重なります。日系人向けの陶磁器生産が、商売として成り立つほどになっていたということでしょうか。
  鈴木さんは、ブラジルで3年間にわたって絵付けの指導と生産に従事して日本へ帰国。おそらく、それは昭和33年(1958)前後のことだったと思われます。


――矢田陶器で活躍、愛知県知事賞も受賞
 陶磁器の輸出額は、昭和25年(1950)の83億円強から昭和35年(1960)には366億円と10年間で4.4倍に伸び、戦後の復興の一翼を担っていました。まさに、陶磁器の輸出が隆盛を極めた時期です。ちょうどこのころに日本へ帰国した鈴木さんは、輸出向け陶磁器のデザイナーとしての道を歩み始めます。バイヤーの意向に沿うような製品さえつくれば、とにかく、陶磁器が売れた時代です。鈴木さんのような経験も豊富で優秀なデザイナーは、ひっぱりだこだったはずです。
  帰国後、鈴木さんは10カ月ほど遠藤陶器(株)で仕事をしたのち、昭和35年(1960)から矢田陶器(株)に入社し、見本づくりを担当するようになります。バイヤーの意向を聞いて、それに合わせてデザインを考案していく仕事です。
  「陶器の絵は難しい。普通の絵はそのままの色だけど、陶磁器の場合は、焼いたあとにその感じの色が出ないといけない。絵の具の混ぜ具合で色が変わる。何と何をどれくらい混ぜると、こういう色になるということを、きちんと知っておかないといけない。僕はすべて覚えていましたから、大丈夫だったけど。また、バイヤーの意向に沿うデザインを考えることが大切ですね。日本人の個性ではなく、アメリカ人の感覚をもとに、デザインをすることを心がけていました」
  この矢田陶器の在籍中に、鈴木さんは数々のヒット商品を生み出したようです。また、矢田陶器に勤めている昭和38年(1963)、陶磁器絵付けの大きな展覧会が開催され、それに出品した鈴木さんの作品が愛知県知事賞を受賞しました。ノリタケや鳴海製陶のデザイナーも出品していたのですが、「それら大手の人たちを負かして、私が受賞した」と鈴木さんは懐かしそうに笑っていました。


――今も毎日絵を描く
 鈴木さんは、矢田陶器には昭和43年(1968)頃まで勤め、その後、デザイナーとして独立して仕事をはじめました。
  鈴木さんが持参した当時の輸出向け陶磁器のカタログを見せてもらいました。そこには、「アニバーサリー デザイン スズキ ミチオ」と英文で書かれています。要するに、鈴木通夫さんの名前を冠した製品のカタログです。一時期、DCブランドの食器が流行ったことがありますが、それに似たようなものというか、先駆けというか。いずれにせよ、鈴木さんというデザイナーの名前を冠することに価値があるほど、当時の鈴木さんはデザイナーとして認められていたということでしょう。
 日本の陶磁器輸出は昭和60年(1985)のプラザ合意までは増加していきますが、その後、輸出はどんどん減っていきます。鈴木さんは、まだ輸出陶磁器の勢いがあった昭和55年(1980)前後に、デザイナーを引退します。耳の聞こえの問題があり、筆談に頼るしかなかったので、なかなか仕事を続けていくのが大変だったようです。
  今、鈴木さんは、頭に埋め込み式の人工内耳を入れているため、ある程度の会話の聞き取りは可能のようです。もう少し早く、人工内耳があったら、鈴木さんはもっと長い間デザイナーとして活躍していたはずです。
  鈴木さんは耳が聞こえなかったこともあって、絵付け技術はすべて見ておぼえました。全然難しいことはなかったそうなので、もともと絵を描く才能があったのでしょう。和絵の具を使った九谷風、薩摩風から洋絵具を使ったものまで、なんでも描くことができたうえ、自ら効果的な表現方法を工夫したりしています。ガラスの粉を使った絵付け(ガラス盛り)などもそのひとつでしょう。
  鈴木さんは、今も、毎日、絵を描いているそうです。「絵を描くのは楽しい」と話します。若いころから、絵が描くのが好きだという気持ちだけは変わらない鈴木さんのような人たちが、名古屋陶磁器絵付けを支えていたことは忘れたくないものです。
  最後に、当時を振り返って、仕事をしていて一番楽しかったのはどんなときですかと鈴木さんに聞くと、「自分が描いた絵が、お客さんに喜んで貰えた時だわー」と本当にいい笑顔でした。

【インタビュー・文 小出朝生】