HOME>業界人のお話>第1回 加藤 茂 H16.7.9
業界人のお話


第1回 加藤 茂さん

陶磁器上絵付け職人・愛知県技能功労者


16歳から絵付けの道にはいりました


親父の宗治は、日本陶器(現ノリタケ)の相当腕のいい絵付け職人でした。しかし、労働争議があって、たくさんの腕のいい絵付け職人さんが日本陶器を飛び出して、東向きの画工場へ散らばったとき、親父も日本陶器を辞めてしましました。
 その後、名古屋製陶に入り、皇室御用達の絵付けを専門に担当していたそうです。ところが、宮内庁の注文が、0.5ミリとか0.4ミリの違いも許さない厳しいものだったため、病気になってしまった。そのため、嘱託として、タクシーで送り迎えしてもらいながら仕事を続けました。とにかく会社を辞めてもらっては困るということだったようです。戦争中も、いわゆるマル技の技術保存者として登録されたほど、腕のいい職人だったからでしょうね。
 しかし、これでは会社に迷惑がかかるということで、その後、独立して自宅で絵付けを始めると、病気も忘れちゃうくらい仕事がたくさん入ってきました。腕のいいことが認められていたからでしょう。

 私は15歳のときに新制中学を卒業すると親父のもとで絵付け職人として修業を始めました。戦後の昭和21、22年頃のことです。
 最初は絵付けをやる気なかったんですよ。私は音楽家になりたかった。16歳の頃から音楽家になるつもりでギターやバイオリン、マンドリンを習っていたんです。しかし、父親が怒って…。「そんなものはろくなもんじゃない」と。で、「音楽は捨てましょう」と。
 学校を卒業したばかりで、おぼこいものだったし、なかなかうまいじゃないかと、うまくおだてられてその気になったんでしょう。
 それで、絵付けの道にいったん入ると、奥が深いことがわかってきた。色彩、デザインなど。絵付けに対する興味にどんどんわいてくるようになった。しかし、私が23歳のとき、親父が早死にしてしまったんです。65歳でした。

 16歳から絵付けを始めて、6、7年は父親について一人前の職人として鍛え上げられていたから、若いけど腕がいいということで、たくさん仕事がもらえたから生活には困らなかったですね。
 だけど、腕は磨かないといけない。腕の世界だから。だから私は人よりも倍時間勉強しようと考えた。一生懸命、仕事をやりながら他の技術を磨いた。そこのころは九谷関係のもの、それからディナー関係、両方やってました。数量としては圧倒的にディナーが多かったですね。
 その頃はかなり忙しかった。だいたい朝の8時から夜の10時までは仕事をした。そして、それから1時、2時まで、より高度なものに成長するために自分の勉強する。
 その頃、名古屋輸出陶磁器協同組合が「名古屋陶芸研究所」という絵付け職人の養成学校をつくったんですが、そこへも仕事が終わってから通って腕を磨きました。


親父の「私欲で働くな」を忠実に
じっこうしました


当時は、ポット、砂糖入れ、ミルク入れ、それに碗皿が6客とケーキ皿が6枚の21ピースのティーセットの絵付けを1日で仕上げられたら、職人として一人前といわれた時代でした。これはかなりスピードのある人でないとできません。もちろん、今は転写ですぐにできてしまうけど、昔は、絵付けにそれだけ手間がかかったということだね。

 九谷風の絵付けをやる人を九谷屋さんと呼んだが、自営の人に限ると、私のようなディナーの絵付けをできる職人は、九谷屋さんに比べて少なかったんです。プラターとかカップに中帯線を0.3ミリの同じ太さで引くことができるのがディナー屋。それがやれる人は少ない。

 しかし、こうしたディナー屋も、転写が出てきてから仕事が激減してしまった。そのため、私は昭和50年代後半から、ガラスの絵付けの研究を始めました。絵の具とか金の絵付けラスターとか。大阪へも研究のために行きました。もともとそういうことが好きだから。それで自分の確たるものをつくってガラス屋さんへもっていったら、ガラス屋さんがびっくりた。「こんなものは見たことがないからぜひ販売させてくれ」と。で、すごく大きな注文が入った。それからがすごく儲かりましたね。そのため次第に絵付け仲間の外注さんもガラスをやるようになった。ガラスの絵付けは10年くらい続きましたでしょうか。

 最も景気の良かった頃、絵付けの親方の給料は、サラリーマンの2倍以上どころではなかった。だから、毎晩芸者遊びで有名の人もいました。
 私の場合は、何に使ったかというと、ほとんど事業費につぎ込んで消えてしまいました。仕事に追われていたけれども、食うに困ることはなかったですね。1カ月の半分働けば生活はできるわけですから。もっとも私の場合は、普通の人の3倍の量の仕事をやるからですが。

 修業時代、「日本は島国だから、われわれは外貨をかせいで国を潤わせるんだという気持でやらないといけないぞ」と親父によく言われたものです。「私欲で働くな」、と。
 だから今でも私欲はない。ただ、常に新しいもの、新しい感覚を追求する努力はしてきたつもりです。 明治時代・江戸時代のものを、現代の新しい感覚にしようとやってきた。それは今でも続いています。
 だからこそ、2年前には石川県の展覧会で入選することができたし、一昨年には愛知県の技能功労賞をいただくことができたと思っています。

 現在、名古屋の絵付けは衰退してしまいましたが、なんとか技術を残したいと思い、数年前から絵付けを指導しています。
これからは、もっと生徒数を増やして、技術の伝承に少しでも役立ちたいと思っています。


加藤茂さんの作品
アート・ナウKANAZAWA 第40回中日美術展 入選「三季三景」 金腐し・黒吹金粉画
ラスター彩 金モリ山水画 蒔き絵 金モリ唐草
(コールポート(Coalport)製
アンティーク碗皿の模作)
ラスター彩 葉模様


加藤茂様は平成19年10月28日にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。