HOME>業界人のお話>第16回 森 幸雄 H20.2.13
業界人のお話


第16回 森 幸雄さん

元 森健陶器株式会社 代表取締役


昭和5年生まれ
名古屋市北区在住


森健吉商店
昭和 6年12月 名古屋市北区杉村町種池東14番地にて創業 
(現)東杉町4丁目19番地 
昭和12年 名古屋市北区山田町3丁目170番地に移転       
昭和46年 森健陶器株式会社に社名変更
昭和62年 森幸雄 代表取締役となる

山スボシ鈴木商店から独立
温度計のなかったころ
水色の絵具の艶で温度を計る

――― 森健陶器の創業はいつですか?
 山スボシから親父が独立したのは昭和7年頃かな。うちと山スボシは姻戚関係があって、 親父の話によると、山スボシのところは娘さんばかりだったから、養子の話があったんだけど、 「養子になるのはいやだ」と断って独立したらしいです。二番目の娘さんとの話だったそうです。

―――  場所はどちれでしたか?

 杉村町種池東、そこが狭くなったので現在の山田町に移ったんです。あの頃は名古屋製陶もそばにあったし、あの辺りは大きい陶器屋さんがたくさんあったね。この辺り(名古屋陶磁器会館)の細い筋は絵付け職人さんが多かったね。

――― 仕事を手伝い始めたのはいつですか?

 昭和23年に旧制中学を卒業してからです。仕事がたくさんあったから在学中から手伝いはしていたけど、戦時中は全然なかったね。親父も徴兵に取られるといかんからと、希望して三菱で働いていました。

――― 初めから絵付け窯はありましたか?

 戦後も窯はなかったから今井商店さんに頼んで焼いてもらっていました。素地もそこでわけてもらっていました。うちが窯を持ったのは昭和30年過ぎです。その頃は薪窯で、都会の真ん中ですごい煙でしたよ。近所の人がよく黙っていたなって思うくらい。

 電気窯にしたのが昭和34年頃、深夜電力でね、深夜電力でなければ高くて使えなかったわけ。夜10時から窯の電源を入れて引けるのが深夜2時ちょっと過ぎ、その間確認に行ったり、蓋を閉めに行ったりと大変でした。当時は温度計もなかったから、水色の絵具を塗ってその艶を見て温度をみてとる。水色が一番早く解けるからね。
 温度計になってからは安気になった。楽がしたくて考えた。一定の温度になったら小さなモーターが回転して、重たい錘がストンと落ちて電源が切れるようにしたんです。模型鉄道を作っていたから、その部品を利用して作ったんです。温度は大抵700〜720度くらいまで、無鉛の絵具になってからは温度をそれより上げないといけないでしょう。そうすると釉薬の加減で絵具が飛ぶんです。描き絵だと、どうしても濃いところと薄いところがあって、濃いところがぺろっと取れてしまうんです。それも並生地はいいけど、白生地は飛んでね。転写なら大丈夫だけど、盛系統はだめだったね。

――― 鉛の問題では苦労しましたか?

 鉛の問題では本庄化学さんがそうとうなお金を使って開発したね。職人さんによると、半分くらい昔の絵具を混ぜるといいというが、そうすると、また鉛が出る。鉛が出るのと、絵具が飛ぶのとで苦労しました。  

――― 絵付け職人さんは雇っていましたか?
 職人さんは雇わず、専属の絵付け職人さんが4、5軒ありました。その職人さんのデザインの注文が来たら、注文をすべて職人さんに渡し、量が多ければ、職人さんから同僚に渡す。描き絵に代わって、輪郭はみんなゴム判を使うようになったから、ゴム判を支給していたね。

 ゴム判を作る判屋さんでは伊藤さんが一番上手だった。うちのすぐ近くの岩堀さんのお父さんも上手かった。ぎりぎりに薄く仕上げる技ね。先端を切って、伊藤さんが鋳込み判を作り出した。鋳込み判のゴムは柔らかくて、かえって使いいいって聞いたよ。鋳込み判は面積で一枚、10枚以上作らないといけなかったから、まだうちにも残っている。原版はきちんとしまってありますよ。  
[写真:ゴム判]

 うちに絵を着ける作業場がないから、幾度も職人さんの所まで往復しました。大半が吹き付けを使うものだから、たくさん詰めないでしょう。リヤカーの時代は良かったけど、トラックに上手にロープをかけないと崩れちゃってね。あまり多い時はうちまで来てもらって、吹きだけやってもらったり、ロクロ仕上げをやってもらったこともあった。

 車なんてないリヤカーの頃は坂がえらくてね。リヤカーを自転車に付けて瀬戸まで往復もしていたよ。道が緩やかな勾配になっていて、行く時は空だからいいけど、荷物を積んで帰りは下り坂だから割と楽だった。わからないくらいの緩い下り坂なんです。その頃は大半が馬車で、名前は思い出せないけど、瀬戸と名古屋の中間辺りに四台くらい馬車を持っているところがあって、その人が大半運んでいた。

スーベニアの商売
東は横浜、西は呉
夜行列車でトランクに腰掛けて...


――― スーベニアが多かったと聞きましたが。
 戦後すぐは直接の輸出は出来なかったからスーベニアをやっていました。東は立川、横須賀、横浜、西は呉まで。一部には九州まで行っていた人もいたね。九谷風山水、金山水や金の代わりにプラチナを使った銀山水、スーベニアには必ず富士を入れていました。
[写真:山水画]

 スーベニアの取引は現金でした。集金は月に一回、西も東も大抵私が行っていたね。自分で木で作ったトランクに大きい百円札を入れて。その頃は百円札しかなかったでしょう。かなり大きい箱だったよ。往復夜行列車で行っていたから、トランクに腰掛けて寝るんです。親父は一度取られたらしんですが、私は取られなかった。お金を持っているはずのない子どものほうが良かったのかもしれませんね。今頃になって、二十歳前の坊によく現金をくれたなって思うよ。

 スーベニア時代には、進駐軍の人たちがノリタケなら買うが、その他は買わないから、ノリタケによく似た裏印を押した同業者がいたよ。良心的なところは「ノリタキ」とかと一字変えていたね。一斉に挙げられたことがあったんです。うちも森健陶器で「MC」とノリタケに似せて作った記憶があるけど、親父はよう使わなかったな。「大日本」や「九谷」などの裏印で売れた時代があった。後半はバイヤー指定の裏印を使ったね。

 「九谷」の裏印では本場からクレームが来たことがあったね。うちは描き絵専門にやっていたから、職人さんは大半が石川県の寺井、九谷出身の人でした。九谷の人だから、「九谷」の裏印を押すことに、当たり前のところもあって、違和感がないんです。ところが、石川県からクレームが出たから、一時、「日本製九谷」、「尾張製九谷」と押したこともあったよ。


 
[写真:裏印]  
貿易の再開
「ウインクレルと取引しないと
一人前じゃない」と言われて...

――― 貿易が再開したのはいつですか?

 昭和26、27年だったかな。昔は物がなかったでしょう。どこのメーカーも作れば売れるという時代でした。

 仕事はヨーロッパ専門で、商社はヨーロッパ向けではトップのウインクレル商会です。 一時ウインクレルの商売が70%あった。各社で競争してウインクレルの値段は厳しかったけど、 「ヨーロッパをやっていたらウインクレルと取引しないと一人前じゃない」と言われていてね。 ウインクレルの他には二明商会があって、そこも良い物を出していたね。

 ヨーロッパでもドイツが大半で、それからフランス、イタリアは値段がきつかったから少なかったね。 終わり頃はポルトガル、七福神は大抵ポルトガル。ダマシンはヨーロッパ以外にインドにも出た時代があって、インド商人は商売人だよ。大阪の商社の人がインド商人を連れてきた時、値段を言う前から 「高い」って言ってくるから怒れちゃった。日本語は「高い」「まけろ」しか知らなくて笑えました。中近東はラスターものが出ました。南米向けに半磁器ものを丸栄蜂谷商会からもらったこともありました。

――― お仕事を辞められたのはいつ頃ですか?

 円高の後、平成になってからです。店を閉めることになったので、注文はなかったが、退職金の代わりといいますか、絵付け職人さんたちへの感謝の気持ちもあって 、絵を付けてもらい商品を残しました。それらは、もう二度と作ることのできない名古屋絵付けの財産になったと思います。
 現在は名古屋陶磁器会館で展示即売しています。海外の人たちに喜ばれた芸者透かし入りのカップに、富士山水、桜美人、紅葉小鳥などの絵柄は、国内では珍しいものばかりです。 このような商品が名古屋で絵付けされ輸出されていたということを、皆様の記憶に留めてもらうことができ、うれしく思います。
[写真:展示販売の様子(左)/芸者透かし入りカップ(右)]

森幸雄様は平成21年10月ご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。