HOME>業界人のお話>第3回 西村 明 H17.1.24
業界人のお話


第3回 西村 明さん

元日本陶業連盟専務


 日本各地の陶磁器産地のうち、工業として生産している4500の事業所を傘下の会員とする日本唯一の陶磁器メーカーの全国団体が、名古屋市東区代官町の陶磁器センタービル内にある日本陶業連盟(略称日陶連)である。戦時中の統制時代は、日陶連が原料・資材を配給する役割を担っていたため、絶大な力を持った団体だった。戦後も日本の陶磁器産業発展のために数々の役割を演じてきたが、現在は、その役割を終えてしまったといっていいほどの存在になってしまっている。日本の近代陶磁器産業は、第一次大戦以降輸出によって発展してきた産業である。円高によって、輸出が壊滅的になってしまったとき、ある意味で日陶連の役割も終わったといっ ていいかもしれない。日陶連の専務理事を長い間つとめた西村明さんは、日本の陶磁器輸出が活発だった時代を知るひとりである。


──日陶連に入ったのはいつですか?

 1961年2月その頃、日陶連の職員は名古屋本部に16名、東京に5名、このほかに、タイル、衛生陶器、碍子など団体が30名ほどで全部で50名位いたと思います。
 また、陶磁器センタービルは1956年伊勢湾台風のあった年に新しく改築され、当時布池町界隈では唯一ガラス窓の大きい5階建てのビルで、最盛期の陶磁器産業の本部として堂々たる威容を誇っていたことを思い出します。
 日陶連の下部組織は、全国主な産地の中小企業協同組合の連合会、大企業を含むディナー、タイル、衛生陶器、碍子などの製品別の団体によって構成され、生産数量、金額、事業所数において愛知、岐阜、三重の3県が全国のシェアの70%を超え、輸出については90%が名古屋港から積み出されていました。
 当時は、全生産額の50%以上が輸出向けで、輸出全品目の60%以上が食器などの生活用品が占めていたので、日陶連の主な活動も輸出向け食器など生活用品中心に行われていました。

──それでは、順を追って、日陶連の主な活動をその背景を交えながら回想してもらえますか。

 まず、1960年代では、当時、繊維に代表される対米貿易摩擦が陶磁器輸出にも及んで、アメリカの陶磁器メーカー団体が、日本の陶磁器製品が安い価格で大量にアメリカに輸出され、国内メーカーが困っているので、輸入関税を引き上げてもらいたいと米国関税委員会に提訴しました。初めての仕事は、この提訴文を翻訳する仕事だったと記憶ています。
 当時のアメリカ向けディナーウエアには35%くらいの関税がかかっていたが、それを50%くらいまで上げろという内容だったと思います。大至急といわれ、多少英語はできたが、陶磁器のことも関税法のこともよくわからないまま、 辞書と首っ引きで夜遅くまでかかって翻訳したのを憶えています。
 翌日この翻訳した提訴文をもって業界代表が上京、衆議院の商工委員会で政府に強硬な対策をとるよう迫ったようです。当時、陶磁器の輸出は、日本の総輸出の2.5%を占めており、国会で取り上げられるほど重要な輸出産業であったからです。 

 次は、インドネシアへの輸出がありましたね。戦後、陶磁器の輸出は、ディナーセットはアメリカへ、一般食器はアジアの中でも人口の多いインドネシアが最大の市場でした。
 1957年インドネシアとの清算勘定廃止により輸出が停止したので、瀬戸、美濃の多数の関係メーカーに大量の滞貨ができました。これを解決するため、地元代議士を通じて政府に救済措置を要請する一方、在インドネシア旧日本軍人の仲介でインドネシア退役軍人公団と150万ドルの特別輸入が実現し、日本側は、日陶連、輸出組合合同で、日本陶磁器輸出振興会社を設立して夫々の職員が業務にあたったこともありました。  

 業界団体として所管である通産省関係では、1963年近促法による業種指定を受けたことと団体法による輸出カルテルを認可を受けて実施したことが挙げられます。
 詳細は省きますが、当時労働力が逼迫する中で、重油のトンネル窯や自動成形機による省力化がコストダウンに、少数の中堅企業への集中強化となり、戦後の復興途上の海外市場で逸早く、国際競争力を強化したことは正しかったと思っていました。
 しかし最近では、これらが円高以降の世界経済グローバル化に乗り遅れることになり、衰退産業としての道を歩む結果となったのではないかとも思っています。

 さらに、1964年関税定率法改正により、輸出振興策のひとつとして輸入関税の払い戻しの制度ができましたが、陶磁器はほとんど国産の原材料を使っていたので、対象になるものがなかったと記憶しています。
 そこで窯を焼くときに使う燃料が石炭から重油へ切り替わった時で、重油には輸入関税がかけられていたのに目をつけ、大蔵省と折衝してこれを原料とみなして貰ったことによって大きなメリット受けることができました。
 さて申請手続きをする段になって、誰がどれだけ重油を使って輸出したのかを特定しなければならないが、陶磁器輸出は素地・加工完成・品目別の分業があり、多数の中小メーカーからの仕入れの組み合わせなどによって流通経路が複雑で、初回は一部の一貫メーカーの直輸出分のほかはほとんど申請がなかった様です。
 これでは、せっかくの恩典も意味がないので、輸出した製品からさかのぼってその数量を求めるという方法を、一括して日陶連がコンピューターを導入して計算処理することによって解決しました。
 これによって年間数億円にのぼる多額の払い戻し金が業界に還付され、払戻手続きの窓口となった日陶連はもとより、輸出関係の組合の財政も改善され、暫くは安定した運営が出来ました。この関税の払い戻しは、76年頃まで続いたと思います。

 1960年代後半は、ニクソンショック(変動相場制)、第一次オイルショックがあり陶磁器業界も多難な時代でありましたが、輸出から国内への転換、省エネ対策の徹底などで乗り切ることができました。

 1970年代は、アメリカでは、日本が開発したカジュアルなストーンディナーが日常食器の主流となり、日本が圧倒的なシェアを占めて対米輸出をのばしましたし、その他の市場では、革命前のイラン中心の中近東市場が好調で、紛れもなく世界第一位の陶磁器生産国としての道を歩んだものです。

 日陶連では、輸出対策として世界各国の輸入障壁の撤廃運動、ISOの鉛溶出基準設定に委員として参画、英、独両生産大国との対等の交流などに力を入れたことははもちろん、国内向けでも製品が消費者に選ばれる時代に入り、製品安全法にかかわる上絵付け品の重金属溶出対策としての安全マーク制度の制定と普及や省エネ、公害対策としてガス窯の開発普及に努めました。
また1970年の大阪万博ではマークの使用権を得て、商業者を含む全業界に頒布したことなどもありました。

──日陶連の専務理事になったのはいつですか?


 1982年。80年代すでに国際経済はグローバル化が始まっており、輸出額は84年業界始まって以来の最高額1200億円を突破しましたが、これを最後85年のプラザ合意による為替レートの円高への移行以後は減少衰退へと転じた重要な時期でありました。
 日陶連の主な活動のひとつは政府への業界振興施策を建言・陳情することで、戦後は、国是の輸出振興をかかげて、特別税制や緊急融資などを要望し実現してきました。
 中でも、1985年11月29日、緊急円高救済を政府へ要請するため、キャピトル東急で同じ輸出地場産業である関、燕の金属食器にも呼びかけ、陶磁器業界が中心となって輸出地場産業の円高救済総決起大会を各産地の顧問代議士十数名の出席の下、政府関係省庁幹部に業界代表が次々と陳情したこと、87年4月14日国会の自民党控え室で商業組合と合同で、竹下幹事長に売上税反対の陳情を行ったことなどが印象に残っています。
 このころ日陶連は、輸出中心の事業も殆ど終了していました。

 そこで、国内に目を転じて、新たに国内意匠の保護制度の確立と労働災害防止の事業をはじめました。
 輸出品については戦後、意匠センターを設立して輸出デザインの保護が図られてきましたが、国内向けについては、各産地の製品が全国的に流通するようになったのが80年代からで、産地間の競合から模倣問題がクローズアップされてきたからであります。
 また、1984年に陶磁器産業の労災保険料率が引き上げられたのをきっかけに、労働災害への関心が高まり、85年労働省より保険料率改善指定団体の指定を受け、以後10年間業界挙げて労災防止活動に努力しました。
 その結果、業界努力が認められ1996年には料率引き下げとなり、バブル不況がつづくなかでの、十数億円の業界の経済的負担の軽減は、大きなメリットだったと思っています。

──最後に陶磁器業界団体に40年近く在職されてどのような感想をお持ちですか?

 1998年9月退職しました。在職中は微力ですが、常に時の流れを見ながら業界発展のための施策を考え実行してきたつもりです。
 俗にひとつの産業が存続するのは30年といわれていますが、その意味では陶磁器産業は、先人の賢明な判断と努力のお陰で一度は世界の王座を占めた、すばらしい業界で働くことが出来たことを誇りに思っています。
 もちろんすべてが終わったとは思っておりません。いまは、陶磁器が新しい時代に即した形で産業としてが生まれ変わる過渡期だと思っています。そのためには、グローバル化した世界経済の動きを注視しながら、他を頼らず自らの力でメーカーは物を作り、商社はこれを売り込む経済・経営の基本からはじめることが必要ではないでしょうか。